からたち雑記帳

読んだり観たりしたもの

博士課程を退学するので旅行しようと思う

私はこの3月で大学院の博士後期課程を単位取得退学して、春からフルタイムで働く(非正規)。
今は週2勤務の仕事と、新しい職場での引継業務の日以外は基本的にフリー。つまり実質的な春休みだ。ということで、一泊二日で旅行に行くことにした。すでに切符を予約し宿も取ってある。

 

今までにも学会とか講演会を聞くために一泊することは何度かあったのだけど、勉強も仕事も目的にせず、一人で遠出するのは初めてだ。

前に会社勤めの友人から、学生なら旅行にも行けそうだね、と言われたことがある。たしかにそのはずなんだけど、結局一度も行かなかった。
旅行に行く時間があれば先行研究が読めるはずだし、一つでも多く用例を探せるはずだし、一文字でも報告が書けるはずだし。
実際のところ、1日や2日、3日や4日出かけたところで進捗に違いはなかったと思う。むしろ定期的に研究や仕事から離れる日を作った方が、メリハリが出て頭が働くだろう。
頭ではわかっていたけど、机の前から離れる勇気が出なかった。


ともかく、本格的(?)な旅行はなにぶん初めてなので、行き先を決めるのも一苦労だった。

海が見たいということと、一泊するということは決まっていた。
さらに、それほど遠くなく、寒い地域よりは暖かい地域の方がいい、ということで、候補地が複数挙がる。白浜、尾道、明石、淡路島……。
そこから一カ所に絞るのに数日悩んで、最終的に愛媛に行くことに決めた。
愛媛のお菓子は好きだ。一六タルトとか、坊っちゃん団子とか、山田屋まんじゅうとか。
学部生のころ、サークルのインカレイベントで愛媛の大学生が仲良くしてくれた。
修士の頃に出席した授業で正岡子規の句集が取り上げられていた。
そんな感じで、ずっとなんとなく気になっていた愛媛に、ついに訪れることになった。

今は具体的な旅程を詰めて、必要な物を買い足し、旅のしおりを作らねばならない。
自分の楽しみのためだけに真剣に予定を立てるのって不思議な感じがする。

 

話は変わるが、私が退学を決めたのは去年の2月で、今年度は研究をせずに仕事と就活に専念していた。
研究をしないと決めて変わったことは、作業日とオフの日をきちんと分けられるようになったことだ。元々活動的な方ではないけど、遊びに出かける機会も増えた。

ある日、数年ぶりに展覧会に行き、タリーズでランチを食べ、海を見に行った。
展覧会はすごく良かった。久しぶりに美術館で大きな絵を見てちょっと泣いた。
何点か海の絵があったからついでに本物も見ようと思って、電車を乗り継いで大阪港まで行った。
海も良かった。周りの人には不審者と思われてそうだったけど、波音を聞きながら揺れる水面を眺めるのは楽しい。

特に有意義ではない、自分がしたいと思ったことを実行できるのってすごく良いなと思った。自分がどんな場所を心地よく感じて何を楽しいと思うかを知って、自分を満足させてやれるのって、生きていくためにかなり大事なんじゃないか。

 

そんなわけで、自分が楽しいと思う過ごし方を確認するために、旅行を実行しようと思う。当日晴れてくれると嬉しい。

初対面で聞かれると困ることー妹の話

知り合ったばかりの人に、きょうだいがいるか聞かれるとちょっと困る。私には妹がいたけど、彼女が20歳、私が23歳のときに亡くなったからだ。

正確に答えるなら「いたけど死んでしまいました」だけど、そう言ったときにその場の雰囲気が重くなったり、聞いてきた人に謝られたりしたら…想像するだけでいたたまれない。

それに、「亡くなった」とか「死んだ」とか、ちょっとした雑談には重い言葉だ。

だから、いつも「きょうだいはいません」と答える。

すると、その後ちょっとずつ嘘をつくことになる。仕事の関係者であっても長くつきあっていると、子ども時代にしていた遊びとか、親に買ってもらったものとか、そういう話題が会話に上ることがあるからだ。

家ではよく2人で遊んだし(かなりの確率でケンカになった)、小学校低学年くらいまでは私が友達と遊ぶときも妹が着いてくることが多かった。家族旅行では姉妹セットで行動した。何なら中学3年のときに私が所属していた演劇部に妹が入部してきたし、高校も同じだった。

十代のころの記憶には、だいたい妹が映り込んでる。

実際のところ、詳細なエピソードトークをするのでなければ、妹の存在を隠そうが隠さまいが、話の内容はたいして変わらない。でも自分の中では、妹の姿にモザイクをかけて記憶を再構成しているような気分になってしまう。

なつかしいおもちゃやゲームの話題でも口ごもる。ゲームソフトはお互いが買ってもらったのを貸し借りしていたし、私は持ってないけど妹が持っていたから、たまごっちあるあるがちょっとわかる。

ようは、私が一人っ子だった場合の二倍のおもちゃに触れていたことになるので、我が家が実際よりも裕福だと思われたらどうしよう、と心配しているのである。

誰もそんなこと思わないだろうけど。

 

自分でもよくわからない。別に一言「妹がいたけど亡くなったんです」と言うくらいなんてことないはずなのだ。その場が一瞬気まずくなるくらいで、大多数の大人はそれ以上深掘りしないだろう。

妹が死んで9年が過ぎたけど、「亡くなった」という言葉に乗っかるであろう、自分の気持ちを上手に掴みきれずにいる。

 

ちなみに、私は自分のことには神経質なのに、他人に対しては無神経だ。

知り合ったばかりの人に両親と一緒に住んでいるのか質問したら、最近離婚したという答えが返ってきたとき、しまったと思った。自分は家族のことを聞かれるのが嫌なのに、相手のプライベートな事情に踏み込んでしまったと反省した。

その質問が当人の気分を害したのかはわからないけれど、少なくとも、その答えを聞いて慌てるくらいなら聞かなければいいのだ。

だから、私は家族の話題は自分から振らないようにしている。

レンタルDVDショップで手厚い謝罪を受けてしまった話

嬉しいけどなぜかちょっと残念だったような話。

先日、レンタルDVDショップで借りていた映画を返却しに行った。いつもは返却ボックスに入れたらそそくさ退店するのだけど、今回はレジで返却することにしていた。

借りていたのは『パディントン』と『パディントン2』。正月に観ようと意気込んでいたのだけど、1作目のクライマックス直前、恐らくDVDの不具合で再生が止まってしまったのだ。

黙って返したら次に借りる誰かとお店が困るだろう。

ちょっと良いことをする気分だったし、店員さんに感謝してもらえるのでは?という期待があった。

入店してすぐ、作業している店員さんに声をかけて、再生が止まってしまった旨を伝えた。すると店員さんは丁寧に謝罪してくれて、その上「同じ作品のディスクがないので、返金か別の作品を無料レンタルさせていただきます」と言う。

たしかに私はお金を払って借りたDVDが観られず、その分損をしてしまったことになる。お店としては、損をしたことを訴える客に謝罪をする場面だ。

私としてはDVDを借りたはいいものの観るタイミングを失ってそのまま返すことが普通になっていたので、お店のせいで自分が損をしたという発想がなかった。クライマックス直前で映画が止まってしまったのは悔しかったけど。

なぜか拍子抜けしつつ、ありがたい申し出を受けて代わりに別の作品を借りることにした。

レジを立ち去る直前、店員さんが「もう一作は…」と尋ねてくる。「あ、観てないです」「1を観れなくて続きも観られなかったということなので、2枚分無料貸し出しということにしますね」

なんと。続きものをレンタルした客の目線に立った柔軟で親身な対応だ。びっくりすると同時に感動したものの、「あ、そうですか、いいんですか」と口にするしかできなかった。

ありがたく旧作の棚を眺め回して、『エクスペンダブルズ2』と『コードネームU.N.C.L.E』を選んだ。(ちなみに後者だけ未見)

なんとなく気まずく感じながら同じ店員さんに貸し出し処理をしてもらい、普段より2割増しで腰を低くしてお礼を言うと、「少々お待ちください」と何やら取り出してきた。

「ご迷惑をおかけしたので、無料レンタルのクーポンをどうぞ」

なんてこった。

私も私で、「そんなにしてもらったら却って申し訳ないです」と言えばかっこいいのに、「あっ、ほんとですか」などと口走りながらクーポンを押し頂いてしまった。

お店にプラスになるかと思ってDVDの不具合を申告したら、めちゃくちゃ丁寧に謝らせてしまった上に、無料貸し出しの恩恵にあずかってしまった。

予想外に得をして嬉しいのはもちろんだけど、感謝してもらえるかもという勝手な期待は空振りし、不思議な罪悪感まで感じる、なんともいえない出来事だった。

 

2023年できるようになったこと①

去年できるようになったことは、カレンダーを毎月めくることです。

正確には、一月一枚印刷されているポストカードサイズのカレンダーを毎月貼り替えられるようになった。

 

以前も卓上カレンダーを買ってデスクの上に置いてはいた。けれども夏には、紙束や本や文房具やゴミに押しやられて、デスクの隅で倒れたり傾いたりしている。

そして毎年その頃には、私は季節が進んでいく事実を直視できなくなっていて、ちらちらと視界に入る7月のカレンダーを無視しながら冬を迎えることになるのである。

 

かわいい絵柄のカレンダーを選ぶのは楽しい。というか、好きな絵やデザインのかわいい紙雑貨を罪悪感なく購入できる機会なんてそんなにない。けれども自分には活用できないし邪魔になる(捨てるときの分別もめんどくさい)のが十分わかったので、ここ数年はカレンダーを買うことをやめていた。

 

日付自体はスマホやPCのアプリを見れば確認できるし、予定は一応スケジュール帳に書き込んでいるので、紙のカレンダーがなくても問題なく生活できる。

 

ちなみに私は実家暮らしだ。子どもの頃から使っている自室と、作業部屋として占拠している亡父の書斎以外の部屋は、母親がきちんと管理している。人目につく場所には紙のカレンダーがかかっていて、もちろん毎月1日に一枚めくられている。

 

しかし、2023年3月、私は満を持してカレンダーを購入した。

きっかけは大学院の満期退学を前提に就活することに決めたことだ。

非常勤講師等の仕事をしながら求人を探し、期日までに書類を作成するという複雑な作業を遂行するために、日付を正確に把握しなければなるまい。

(本来は研究活動だってそれが必要になるはずということはわかっている)

それに目で一回見ただけでは情報を飲み込めない私には、何度指でなぞってもタップした判定にならない紙のカレンダーが向いている。

 

視線をちょっと動かした位置に紙のカレンダーがあれば、スマホのロックを解除するなり手癖でTwitterを開いて複数のアカウントのTLを巡回し、本来の目的を思い出してカレンダーアプリを開くという手間が省けるだろうし。

 

絵柄はもちろん形態が重要だ。

卓上に置くとすぐに行方知れずになってしまうので、壁に貼るタイプがいい。デスク上の棚に貼れる小さいものがベストだろう。予定の書き込みは手帳にするので、日付の余白はいらない。

人や動物が描かれているものは気分じゃない、目に入っても気が散らないように、シンプルでかわいらしすぎないものがいい…。

minneで条件に合いそうなものを検索して、ポストカードサイズで一枚ずつ貼り出すタイプのカレンダーを購入した。くすんだ温かい色味の背景に、やわらかいタッチのパンのイラストが描かれているデザインだ。

木製の棚にマスキングテープで留めると、なんだかきちんとした人に近づいたみたいだ。

隣に飾っている『ゴールデンカムイ』の白石由竹の缶バッジとデスクの混沌はいったん見ないことにする。

 

おかげさまで、12月まで1枚ずつカレンダーを貼り替え、毎月違うパンのイラストを楽しむことができました。

 

同時に、世の中の時間の進みをぼんやりとしか認識したくない状態を脱していた。

仕事と就活のスケジュールはすでに決まっているので、それに従って手と頭を動かせば、「日付が進むのに自分だけが取り残される」ということもあまりない。

幸い10月に常勤の仕事(教職ではない)が決まったので、時の流れに対する自分の停滞に大きくさいなまれることもなかった。

あと講義中の教卓に置くために入手した小さな時計も、デスクの上を「仕事をする人の机」らしくしてくれた。

 

卵が先か鶏が先か、という話になるけど、自分の停滞した状況を変化させようとしたことと、時間の進行を目で見て把握しても大丈夫になったことが、2023年の成果の一つです。

【ネタバレ】小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』感想文

【読んだ本】

アンディ・ウィアー著/小野田和子訳『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上・下(早川書房、2021年初版発行)

※注意※この記事は、ほぼ全編にわたって小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のネタバレをしています!問題なければスクロールをお願いします。

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この作品は、「英雄」が自分を取り戻す話だと思う。

もう少し詳しく書くと、「自分を何のためにどう使うか」イコール「自分は何者でありたいか」という問いに対する答えを、主人公がつかみ取る物語だ。

 

この物語は、主人公が自分が誰かも、今どこにいるのかもわからない状態で始まる。

彼は自分が置かれた状況を一つ一つ理解し、記憶をたどることで、自分が人類を救うためにヘイル・メアリー号という宇宙船に搭乗している、「勇敢な」人間であることを把握していく。

 

ヘイル・メアリー号の機能やアストロファージのこと、地球の状況についての記憶は、グレースが目の前の事態に対処する中で明らかになっていく。ミッション遂行に必要な知識や技術は彼自身に染みついている。一方で、彼がヘイル・メアリーに搭乗した「勇敢さ」の理由はなかなか明らかにされない。

けれども、ヘイル・メアリー号に乗っているという事実が、彼がクルーにふさわしい勇敢さや意思を持っていることの証拠となるはずだった。

 

ヘイル・メアリー号に乗れば英雄になることはほぼ決定している。

彼は人類を救う希望を賭けた、決死のミッションに志願したクルーだ。

ミッションの失敗は許されず、成功の可能性を限りなく上げるだけの準備を行った。

だから、グレースは自分がヘイル・メアリー号に乗っているという状況証拠をもとに、自分が英雄たり得る人物であると理解したのだ。

「自分は誰か」を思い出せない中で、自分が勇敢な人物であるという「事実」は彼のよりどころの一つとなった。

 

それゆえ、自分は「英雄」であるための「勇敢さ」を実はもっていなかったということを知る瞬間が、グレースを最も動揺させる。

 

グレースは薬の効果で、無理矢理船に乗せられたことを忘れることができていた。

自分がその任務に当たるにふさわしい人間であると信じるためには、結果的に自身の臆病さを忘れている必要があった、と思う(死が確定しているミッションを拒むことを「臆病」というのは厳しすぎるけれど)。

 

多くの人にとって、自分自身の判断と行動の積み重ねが、今後の課題を乗り切る自信と見通しになる。同時に、それは何かを決断するときのブレーキにもなる。

私は過去の自分が逃げたことや失敗したことを覚えているから、何か新しいことに取り組むときは常に不安を抱えている。不安を生み出し続ける自分自身を忘れることはできない。だから、ヘイル・メアリー号に搭乗した成り行きを忘れていたことは、グレースにとって幸運だったと思った。

 

一方で、人は自分の失敗や臆病さを知りながらなお「それでも」と決めた勇気を足場にして次の一歩を踏み出すこともできるはずで、グレースは「決死のミッションに志願した自分の勇敢さ」をよりどころにしていた。

 

グレースがヘイル・メアリー号に搭乗することになる経緯は、物語が進むにつれて徐々に明らかになる。そして、決死のミッションに赴くことを、彼がどのように受け止めていたのかということも。読み進めながら、一体グレースはなぜ今ヘイル・メアリー号に乗っているのだろう…という疑問が湧いてくる。全然乗る気なさそうなのに。

 

グレースはクルーの選抜について、絶対に死ぬとわかっている任務に志願する人間がどれほどいるのか疑問を持っていた。そして志願者と対面した後も、彼らが自分の命を賭けるという事実をこの上なく重く受け止めていた。自分には想像もつかないことだと。

つまり、彼は自分の役割は命を捨てることではないと確信していた。自分はそんな決断をする人間ではないと自分自身を理解していた。

それなのに、自分の命を捨てるという決定を、自分自身で行うことができなかった。

 

繰り返しになるが、この物語は、「自分を何のためにどう使うか」=「自分は何者でありたいか」ということを問うているのだと思う。そしてグレースはその答えを体現する。 

少し話はそれるけど、私は自己犠牲を称揚するのはよくないことだと思っている。けれども、人は生活の中で誰かのために自分の労力を使うことが大なり小なりある。たとえば、見知らぬ人の落とし物を拾うようなちょっとした人助けはもちろん、仕事も、自分の時間や労働力を自分以外の何かのために使うことだといえる(仕事はその引き換えに賃金を受け取れるが)。

 

ヘイル・メアリー号打ち上げまで、彼は自分の能力や経験や時間や労力のほぼ全てを費やしてプロジェクトに携わっていた。命を捨てない範囲で。

それは、教え子の未来や、科学者としての能力や経歴を生かすことへの使命感や好奇心…彼自身のアイデンティティを構成する様々な要素をもとに為された選択の結果だった。

しかし最後の最後に、自分自身の意思とは完全に反する形で、命を捨てることが確定されてしまった。つまり自分が自分であることを放棄させられた状態になったといえる。

 

彼の最も大きな決断――ヘイル・メアリー号に乗って地球に帰るのではなく、タウメーバに侵されたロッキーの元へ向かい帰還の可能性を捨てることを選ぶには、自分の全てを知っていなければならなかったのだと思う。友人や教え子、そして自分の命が大事な人間であり、人類のために死を決意する人間ではないということを。

 

グレースは命がけのミッションに赴き人類を救った「英雄」だけど、彼が「死んでも構わない」と自分の意思で決めたのは、人類のためではなく異星の友のためだった。

グレースとロッキーが別れるまで、彼らがいかに親友となったのかがつぶさに描かれる。お互いの生態、言語、文化や習慣を知る努力を重ね、同じ目的のために技術や知識を共有し、危険に直面したときは命を救い合った。グレースにとってロッキーは唯一無二の親友で、自分自身を生かした支えそのものだった。

地球に生還できる可能性を捨てて、ロッキーが搭乗するブリップAに向かうという選択は、グレースにとっては限りなく「自分のため」に近い「他者のため」になされた。

そのことで彼は自分自身を取り戻したのだと思う。

彼は、「自分が何のために何を使うのか」=「自分は何者でありたいか」という問いに、「英雄」ではなく、「ロッキーの友人」であるという答えを得た。

 

 

読み終えたとき、行き届いた作品だなと思った。ヒーローが、これまでの選択や行動を肯定し、自分自身の大切にしたいものを捨てずに生き続けるというエンディングは、読者である私を安心させてくれた。

余談だが、私はマーベルのヒーロー映画が好きだ(ここ1、2年のドラマと映画はあまり観られていないけれど)。危険を顧みず自身を犠牲にして市民を助ける姿に興奮し、信念や正義と自分の心や生活の狭間で葛藤する姿に涙してきた。

ヒーロー達への愛着を育てると同時に、自己犠牲のドラマを楽しむことへ罪悪感も持つようになった。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はそんな薄っぺらな罪悪感を後生大事に持っている読者にも優しい物語だった。

 

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